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新生のらくろ君Aの館

新生のらくろ君Aの館

ジンバブウェ時代その3


私がジンバブウェで仕事をした時の日記(3)です


TYaさんから、マッチプレーに勝ち進んでいるとの連絡が入る。TYa氏のゴルフはめっぽう巧い。私と対戦することになりそうだ。来週のロイヤルハラレで、TYa氏と私は公使とTIk氏のウイットネスで対戦する予定
29日にはチルンド(ザンビア)へ行くことになった。
SYa氏はミャンマーに行くことになったようだ。

月曜日、安村参事官に提出する報告書がやっと出来た。
ソテ橋の土質の件で、Ta氏とチャワンダが役所に出かけた。TIk氏とは、セレモニーに場所の評価表を作成、オジ橋へ行くことを確認した。
オジは、昔ベイズレイと呼ばれていたことを知る。独立で、ソールズベリーがハラレに、南ローデシアがジンバブウェに、それぞれ現地語に変わっている。
TYaさんとの約束でチルンド橋(ジンバブウェとザンビア国境に架かる吊り橋。)行きのため、ザンビアでのビザを取るべくマトーレにパスポートを預けたが、受取証もなく、何となく不安でしょうがなかった。

火曜日、オジ橋に向かう。TIk氏の車で8:00出発途中ハーフウェイ(イギリス人は随分良く考えたものだ、300kmある行程の距離では中間地点にハーフウェイト称して、ゆっくりと休める町を作っていた。)で約30分の休憩を挟んで、11:45オジ橋着。TIk氏、TAd氏、フリッキー、チャワンダと私の5人である。

Odzi橋

5人と2人の現地フォアマンとで、ムタレ側から、歩いて検査を行った。緊急手直しや、改善すべき点は、殆ど手つかずのままだった。TAd氏はやったと言っているが、要領を得ない。TAd氏は既にアフリカ人になっている。場当たり的で、刹那的な気がする。
その点フリッキーは、真摯に受け止めて対応を約束してくれた。フリッキーは鴻池から丸投げされている、南アの業者の現場監督にあたる。正直フリッキーの権限を越える要求もしたが、セレモニー(この頃からオッジ橋が対象になりそうであった)を考えると、ODAとはいえ、いい加減なものを供したとあっては、大使館を含め、コンサルである、日本工営の名折れになると考えた。
TIk所長も10~14日前に人を入れて、改善すると約束してくれた。

帰りにムタレプロビンスの役所を訪れ所長のネマチェネは不在なるも、次席のテンデレに、手直し分のMOTE所掌分と、鴻池のポーションのすみ分けをすべく念を押し、フリッキーがそのアイテムを議事録として作成し協議することになった。
それだけをすますと、ハラレに向かい19:20事務所に到着した。
TYa(ビザの件)、TSu(奥さんが飼い犬にかまれた由)、MTa、YToから電話が入っていた。

水曜日は、MTa氏から電話が入り、TYa氏依頼の図面など送ったとの件と、モザンビークに来るので、ヨハネスブルグまで、自分のトランクを持ってきて欲しいとのこと、日本から故障したパソコンの替わりのパソコンを持っていくのでヨハネのホテルで交換しようと言うことになった。
又8月一杯で、モザンビークの件は止めるとのことだった。

TIk氏は、オジ橋の手直しを4/end~5/20に行うと言ってきた。
ザンビアのビザはやっと取れた。パスポートが無くなるのではないかという私の心配も杞憂に終わった。
ブルートレイン(前回の帰り)払いすぎたお金のリファンドを、アンジーがやっているが、アフリカ人のすること故に戻ってくるかどうか疑問である。
ムダワリマからかねて懸案の、ソテ橋導入道路のGUKI707(土質)はベース1には適さないと言ってきた。
何のことだ。土木でない私には、難解なことだった。

朝一番で、東京本社から問い合わせがあった。3月15日締めの決算で、ジンバブウェのプロジェクトの現金残高確認書と預金残高確認書を送れというものだった。
9:00にMOTEムダワリマを訪ねる。ベース1のGUKI707の件、道路の建設スケジュールの件、さらにセレモニーの件を話す。
月例の銀行通い。TIk氏来訪で、サイトの売却の件、オッジ橋の修復リスト、機器輸出入の規則、GUKI707の件などを話して帰る。
NJS百瀬氏が1ヶ月後にハラレ入りするとか、私にはどういう繋がりか分からず、ただ応対をすることになる。

TSuさんが、来て、雑談をして帰る。慣れない私を気遣ってか、MTa氏が居なくなって、一層面倒を見てくれるようになった。私の方も、大学の後輩であるが、世慣れたTSu氏を頼りに思うようになっていた。TSuさんの奥さんは、日本からグロリア(シベリアンハスキー)を連れてきた。それを嫉妬してか、それまで飼っていた、シェパードの三太がいきなり奥さんを咬んだという。三太は、公式の訓練所に追いやられた。
人間も同じだが、同じ環境にいて、愛情の差別があると、なかなか巧くいかないものだ。まして相手は畜生だ。物の道理など所詮分かる筈はない。屠殺に回されなかっただけ幸せだったのかも知れない。
夕食に訪問してカラオケを歌った。商社は、厚生設備の一環として、海外駐在員にはいろいろ気を遣っているようだった。その点日本工営は、新聞と雑誌ぐらいで、特に気を遣っている風でもなかった。もっとも商社と比べて、滞在期間が短いこともあろうが。

金曜日GUKI707が、2転3転して結局ベース1として使用して良いことになった。
又、YTo君と、シマンゴ(YTo補助)と3人で、免税に対するサポートレターをテベレジに渡しに行き、火曜日に返事を貰うことになった。YTo君は、流石現地にいるだけあって、英語もぺらぺらである。私は、最初の挨拶をしたら後はアテンドするだけで用が足りた。

4月27日(土)ロイヤル・ハラレで、岡本公使、TIk氏をウイットネスとして、TYa名人とマッチプレーを行った。ドーミーホールで、僅か30cmのパットをミスってしまった。相当なプレッシャーである。次のホールで何とか、勝ちを決めることが出来た。グロスは103で、何と言っても、ハンディが効いている。(30から、その後の日本人会の成績で28にまでなっていた)2ホールを残し、8-5での勝負だった。TYaさんの悔しがったことは言うまでもない。TYaさんも、100とその日は、絶不調であった。

TSu婦人の歓迎会ということで、チャイナタウンで、鴻池が一席持った。そのまま流れて、TSu邸でのカラオケは12:30に及んだ。
翌日曜日は、6:00起床ウォーレンヒルにて、日本人会のコンペがあった。私は最終組になり、51+51の102で準優勝を成し遂げた。ハンディが又下がり26となった。
夕食はTSu氏宅で、ハヤシライスとピザ。腹一杯食べたのと昨日からの寝不足で9時に辞去し、そのまま寝てしまった。

月曜日は、TYa夫妻と、チルンド橋に行く約束だ。6:00に起床、7:15TYa夫妻が迎えに来てくれた。いいランドクルーザーに乗っている。ランクルは、一路カリバ方面に向かって走り始めた。カリバへは、ザンビヤとの国境手前の最後数kmで左に曲がる。大地溝帯が走る高原を、ランクルは軽快に走る。物の本によると、人類は、大地溝帯の西側で、育ち、東側は、砂漠化して、何も残らなかったという。

グウェルへの道のりと同程度走ると、分かれ道に出る。このあたりから、海抜が急に下がる。道を真っ直ぐ行くと、うねりながら下がっていく。途中で、検問所があり、車を止められた。ツエツエばえが、発生しているので、車を消毒される。さらに数km走ると国境の近くに来る。トラックが通関の手続きのために長蛇の列を作っているのですぐ分かる。
私は、TYaさんと相談して、前に一度地方の役人の案内で、登ったことのある、チルンド橋がよく見える丘に登ると、そこからは国境であるチルンド橋(吊り橋)と、ザンビア側がよく見えた。

ザンビアに向かって左が、カリバ湖で、カリバ湖をずっと西に行くとビクトリアフォールに行き着く。
高台で、写真を撮り、少し休んだ。元の道に降り、通関手続きを取る。車が混んでいることもあって、通関に時間を食った。問題なくスタンプを貰うと、ザンビア側に入った。といっても景色が変わる訳ではない。どちらかというと、ザンビアより、ジンバブウェの方が、裕福そうである。暫く走って、少し景色の良いところで、用意してきたおにぎりを頬張った。これが又旨かった。
真っ直ぐ行くと、ザンビアの首都ルサカに行く。そこを左に折れ、日本のススキ林のような風情の道を、カリバの方にとって返した。帰りは、カリバで通関を済ませた。

つかの間のザンビアであった。

カリバの街を抜け、ハラレに向かう道すがら、ホテル、レイクビュー・インで休憩をとった。何だかだと、寄り道をしたので、5:30に出発することになってしまった。TSuさんたちと8:30にチャイナタウンを予約してある。TSuさんに電話を入れたが、結局約束の時間に1時間遅れてしまった。辛抱強く待っていてくれた。TSuさんの奥さんと、TYaさんの奥さんは初対面だった。
本日は、大変な1日だった。行程にして800km交代での運転とはいいながら、異国の夜道は、不気味であった。

MTaさんが帰る前に、子犬を拾ってきた。捨て子故バスターと名付けた。それが、残飯のせいで、図体だけは大きくなった。アフリカの雑種故、頭も悪い。躾しようとしても覚えようとしない。チルンドから帰った次の日裏庭のテニスコートで、ネットがずたずたにちぎられていた。バスターのせいである。
私は怒りの余り、何度も打擲した。最後に棒で叩くと、歯をむいて、怒った。
アフリカの犬はいっそう頭が悪いなと思った。
私は元々、犬は嫌いである。そんな私になつく筈はなかった。

火曜日は、バスターの件で頭に来たが、チャワンダが帰り、プログレッシブレポートについて打合せ、又オジ橋の開通の件でも打合せを行った。
テベレジに頼んでおいた、免税の件の手紙を取りに行く。

水曜日、少し肌寒く、早めに目が覚めた。Ta、TIk両氏とウィンゲートで約束をしていた。
Ta氏は、前もって来てパットの練習などしていた。TIk氏は、開始早々に来て、参加した。
インのスタートは、バンカー、林、と裏街道を歩き、全くお話にならなかった。アウトに入って、やっとパーが取れた。私の成績は、100を少し上回るのが精一杯である。

ロイヤルハラレは、由緒正しく、このウィンゲートも歴史があるようであった。日本のような過剰な手入れはして無いが、それなりにゴルフを楽しむことは出来る。イギリス人が残した産物であり、プレーするのも白人が殆どである。日本人会も人数が少ない割には、良く来て、プレーをしている。
帰宅後、シャワーを浴びて、フィフスアベニューに買い物に出かけた。
TSu夫妻が、饅頭を持って、テニスに訪れた。商社というところは何でもあるものだと妙に感心した。

木曜日プログレスレポートや、アカウントのチェックをした。TSu氏関係の機材供与(LOT2)の検収発行依頼を頼まれ、テベレジに渡すことになる。

パトリックに庭の片隅にうずたかく積んで、見苦しくなっている干し草を捨てにやらせた。放っておくと黒人は働かない。
TYaさんの女中が、土地を買うというので、マツダとマレーテを貸し、見に行かせた。

金曜日は、雑用が多かった、オジ橋はまだ何もやっていないという。鴻池に強く、早期着工を促した。

TYa夫人は、マレーテを貸し出した件と、チルンド橋に一緒に行ったとのことで、小松菜とケーキを持ってきてくれた。小松菜は、自分の庭で取れたといい、ケーキは自作ということだった。
私は、女性は凄いと思った。無から有を作るのだから。

土曜日は、午前中だらだらしていた。午後からTSuさんと、ゴルフ場を3ヶ所回ったが、どこも一杯で断られた。帰って、ダブルスでテニスをして、ビールを飲みTSuさんたちは帰っていった。
ビデオを見に来たらと誘われたが、気が向かず、失礼した。
いつも、いつも、限られた人間関係の中で、時には息抜きも欲しい。海外の生活は、往々にして、そんなところが落とし穴かも知れない。仕事を円滑にすることと、楽しく生活を送ることは、あるところでは矛盾をはらんでいるのかも知れない。

日曜日はいよいよ日本人会マッチプレーの優勝戦である。11:25TSuさんにピックアップして貰って、ウィンゲートへ出かけた。相手は、JICAのNar女史である。TSuさんと、TIkさんをウィットネスにして、18ラウンドに向かった。Nar女史がウィンゲートを選んだ。私にとってもやりやすいコースだ。これが、チャップマンなら心理的負担が大きい。ハンディもほぼ同じ。
相手は女史である。勝たねば男が廃ると考えた。レディースティーは少し前過ぎるのかと感じた。
試合が始まると、3ホールを残し、7:3で勝った。優勝だ。グロスは102だった。

優勝祝賀会と銘打って、TSuさんと、鴻池を呼びチャイナタウンで食事をした。
私はこの喜びのさなかでも、黒い犬の恐怖を忘れることは出来なかった。しかし、ハンディはどうであれ、優勝は優勝である。銀製のカップは、日本人会、マッチプレー優勝の名前を刻まれて、私の手元に来ることになった。
後日銀製のカップを貰った。それにはこう書いてあった。
Japanese Club
Zimbabwe Trophy
Golf Match Play
Champion
May 1996


本社にフロッピーを送ろうとしたが、フロッピーにはインボイスがいるといって、なかなか送れない。マトーレに文章を書かせた。
セレモニーのスケジュールについてMOTEと話すことになった。

木曜日、場所が決まらなかったJICAのオフィスが決まった。サザンプトンビルの8階だ。JOCVも同じ場所になる。早速、中村所長を訪ねた。見晴らしの良い、オフィスという感じだ。気さくな所長である。
MOTEに立ち寄り、ムダワリマと話す。なかなかセレモニーもすんなりとは決まらない。TYa氏、百瀬氏、TIk氏、竹下氏、いろいろな人と会う。結構疲れる。船の設計の方が楽だ。
夕方から少し雨模様になった。雨期が始まり、数日この様な日が続き、段々と寒くなっていくという。
今日もTSu邸で、夕食をご馳走になった。あのチャイナタウンのオーナー夫妻も来ていた。

チャワンダは、故障したロッキーが直り、グツへ向かった。
ムダワリマに渡された、セレモニー関係の書類に目を通す。夕方、百瀬氏らと、チャイナタウンで食事をする。
毎日が、こんな繰り返しである。

木曜日、TIk氏とTSu氏を伴って、オジ橋へ向かう。ハーフウェイまでTSu氏が運転をし、休憩後、そこから私が運転した。オジ橋は、手前4kmはMOTE所掌で既にビツメン(アスファルト)を敷いていた。
日本側の方は、大きな修正は手つかずであった。やれやれである。
帰りは、ベイラ街道のロッジで昼食を食べ、そこからTSu氏が運転ハーフウェイで、土産物を買った。小さなフクロウと、子犬を二つずつ。そこからハラレまではTIk氏の運転で、ハラレ直前で雨に遭う。
3人で交代して運転しても、結構疲れる。

7時前に起きた。寒くなってきた。JICAの中村所長にアポイント取る。プログレッシブレポートを届けるためだ。テベレジにも届けた。半ば儀礼的になっている。次の工程に移る承認のレター(コメンスメント・サーティフィケイト)を貰った。これが、重要な書類で、鴻池は首を長くして待っている。
積み残しが多く、南アの業者になめられているのではないかと疑った。
ムダワリマとも話したが、セレモニーの場所一つ決めるのも、四苦八苦である。
日商のオフィスに回り、ビツメンが遅れたのは、日商のせいだと、ムダワリマがいっていたと伝えるとTSu氏は怒っていた。JICAに対しプログレッシブ・レポートについて説明。
鴻池によってコメンスメント・サーティフィケイトを渡す。

5月11日(土)
かねて連絡してあった、MTa氏のトランクと、パソコンを交換しにヨハネスブルグまで行くことになった。12:30に空港に到着エグジットカードを書き、イミグレーションで、スタンプを貰う。
持参貨幣の申告(200US$と300Z$)を済ませ、荷物検査を受けて、イミグレーションは終了。
ハラレを13:40発の予定が遅れて、14:10にボーディングを済ませた。15分ほど待ったであろうか、飛行機は、ヨハネへ向けて離陸した。眼下に見える大地は、雨期故に、私が来た時よりも若干緑を帯びていたが、基本的には赤茶けた色そのものには変わりなかった。
機は16:10ヨハネ空港に無事着陸した。ジンバブウェで、カリバに行ったり、ワンゲに行ったり、飛行機には乗り慣れていたので、落ちることはないと思っていたが、矢張り、習性で、着陸態勢になると、その高さに応じて生存の確率を頭の何処かで考えている自分に気がついた。

ヨハネの空港では、パスポートコントロールも、荷物検査も至極簡単であった。銀行で、とりあえず100US$をランドに替える。コミッションを引かれて、417ランドだった。
念のため、出発ロビーに上がり、帰りの便のリコンファームを済ませた。海外では、これをしておかないと、乗りそびれることがあると聞いていたので、念には念を入れなければ安心出来ない。
空港から12ランドを払い、シャトルバス(白色)の、ガーデンコート・エアポート行きに乗りホリデイ・イン・ホテルに着いた。
シャトルバスも、緑の方に乗ると、ガーデンコート・ジャンスマットに行ってしまう。そちらにもホリデイ・インがあるので注意しなければいけない。
ケープでも間違ったが、南アは、姉妹ホテルが多く、本当に気を遣う。
夕食は、Tボーン・ステーキを食べ、荷物にならない程度の小さな、お土産を買って、明日MTa氏がやってくるのを待つことにした。それでも、250ランド位は使ってしまった。
カードを持っていたし、申告外のUS$もあったので、お金のことは気にならなかった。

日曜日を迎えた。ホテルのベッドは、寝心地が良く、ぐっすりと眠ることが出来た。
7:00にMTa氏がホテルにやってきた。同行のみんなは、休憩が出来なかったといいながら、MTa氏は、早めにホテルまで来てくれた。仕事の話と、東京での情報などについて、10:00まで話す。
東京では、私が最後まで仕事を遂行出来るかどうか心配しているが、MTa氏が、大丈夫だといっておいてくれたようだ。
KTa次長が、近々来るというので、少し口うるさくなるだろうと覚悟を決めた。
10:00過ぎに空港へ向かった。
空港で、MTa氏の同行者と挨拶を交わした。外務省、本四、長大、工営、と通訳の女性。モザンビーク入りには、フランス語が出来ないとやはり駄目のようである。女性は、はっきり言うとブスだった。
一行は、12:20、マプト(モザンビークの首都)に向けて出発した。
私は、ハラレ行きまで5時間を空港で時間潰ぶしをしなければならなかった。

TSuさんには、ウイスキーを買った。なんだかんだといっても、ハラレは田舎、ヨハネスブルグは物が豊富にある。
そうこうする内に、16:15搭乗テイクオフまで1時間ばかりあったが17:10テイクオフし、
機内で丁度、ドイツ人の男性と隣り合わせになった。ドイツ人も英語が話せたので、少し話し込んだ。その男性は、しきりに家族のことを話していた、親父さんが亡くなったとか、四女は、話の方向が合わないとか・・・。やがて飛行機はハラレに18:35無事ランディングした。
マレーテが迎えに来ており、忙しいヨハネの往復も終わった。パソコンが、直ってきているのが、今後のことを考えると、嬉しかった。

月曜日、OCSで送ったフロッピーが、やっと本社に着いたと知らせが入っていた。鴻池、大使館、TSu氏と相変わらず、電話をすることが多い。
TAd氏から、ペンベジ橋道路の発破作業がようやく終了したとの連絡が入った。

火曜日は、雨で寒い。朝、KTa次長から恒例の6:00のファックスで始業。
電話でも話したが、1.総合報告書の件、2.竣工式の件、3.オジ橋視察の件と、此処までは、予期していたが、急に日本工営が、ケニアのマリンディ(モンバサの北数十km)でやっている、サバキ橋に、一緒に来るようにと言われた。
KTa氏は16日に日本を出発するとのこと。ナイロビ空港で、落ち合うことになった。
急な話である。ナイロビ空港には、東アフリカ事務所(ケニア)の方から迎えに来るという。ホテルはセレナホテル、ビザは空港で取るべし、ケニア・シリングは、空港で両替すべし、又航空券は、往復で、片道オープンとすべしと、矢継ぎ早の指示。
とにかくエアチケットのブッキングは済ませた。マトーレに、出張旅費の引き出しすべく、銀行に行かせた。一方、私は、本社に送金依頼(レミッタンス)を出す。
長い間懸案だった、ブルートレインのリファンドがやっと出来るようになった。何しろ、スローモーである。TSu氏にいわせると、イスラム圏(トルコなど)は、インシャーラで済んでしまうとか。(アラビア語は深く宗教と結びついた言葉。神様のことを意味する言葉がたくさんある。この言葉もそんな中の一つ。インシャーラを日本語に訳すと「神の思し召しのままに。」という意味合いだが、要するに、出来るか出来ないかは神様次第と言うことである。

「明日の事は私達にはわからない。神のみぞ知る。もしかしたら明日、私が事故に会って死んでしまうかもしれない。私に予期しない事が起こるかもしれない。明日の事はわからない。でも、今のところは大丈夫。」そんな意味合いの言葉。だからこの言葉を使うと大抵の約束事は守られない。
彼らは都合が悪くなるとすぐ「インシャーラ」である。

KTa氏は9:00にナイロビに着くので、迎えてやるとのこと。私は、旅慣れていないし、英語も得意な方ではないので、心強く思った。
彼が不在時の仕事について、チャワンダに指示した。
1.MOTEに、橋名の拓本を見せて、判断を仰ぐこと。
2.ムダワリマは、セレモニーの件で、上司の見解では、オジ橋で良さそうだが、大臣の決裁はおりていないという。確認せよ。
3.ソテ橋の土密度について電話をよこすように。
4.23又は24日に帰るので、ロッキーをピックアップに替えておくように。(KTa氏が黒人にロッキーを使わせるとうるさくいうので)
5.ペンベジ橋の完成検査に立会せよ。
TIk氏も本社の次長が来るというので、少し緊張している。と言うのも、KTa氏は、非常に口うるさいということで通っている。私が来る前に、TIk氏は会っているので、その人隣は十分理解しているようだった。
マトーレに航空券を取りに行かせる。最初5466Z$と言っていたのが6298Z$という。エコノミーとビジネスの違いだという。又名前を、Konoikeと間違ったり、空港税を忘れていたり、とにかく、ワープロがすこし出来るというだけで、秘書とは名ばかりの愚鈍な黒人女である。
彼女の友達が、旅行社のアンジーだが、これもしっかりしているようで、ちょんぼが多い。
MTa氏もそうだが、私も良く飛行機を使うので、マトーレは頻繁顧客の秘書優待で、ヨハネ1泊ビクトリアフォール経由での優待旅行があるという。るんるん気分のようだ。

5月16日(木)
マトーレに、旅行には一切会社から補助は出ないと釘を刺す。
マレーテには、車の点検を指示。最近、寒いのでこしゃくにも、応接室で待たせろとか、キッチンで食事をさせろとかいうので、まかりならぬと言明した。又、この間はタクシーを使ったが、バスのある間はバスを使えと命じた。タクシーに乗りたければ、自費だと。
MTa氏は、この点甘かったようだ。違った道徳観を持っている。JOCVで培った、優しさだろうか。私の場合は、使用人との差は厳格であるべしとの、KTa氏の考えで動いた。
私は、総合報告書の作成に全力を使った。

ハラレにも小さいがデパートはある。ブランド物といっては、一寸無いが、ダイヤとか、銀製品は、有名である。
骨休めに、今までのゴルフの成績をエクセルで集計グラフを書いた。若干の上達が見られるが、大したことはなく、TSu氏よりは少し良いかという感じだった。(この結果は、マッキントッシュで作成した故、今のWindowsでは開けない)

マトーレは、3時過ぎに、ヨハネへ向けて出発して行った。

5月17日(金)
6:30、少し寒く、トイレに行きたくてそのまま起きた。之からナイロビへ行く。ハラレからナイロビまでは2時間30分位という。国内なら、なんていうこともないが、治安の悪いナイロビである。少し緊張する。ハラレとは1時間の時差がある。9:30マレーテに送られて、空港へ。10時過ぎにチェックイン。
イクジットカードは品切れになっていた。イミグレーションを過ぎ、税関で、金の持ち出しを聞かれた。500US$と300Z$と申告。見せろというので見せた。
相変わらず外貨の持ち出しは厳しい。
空港の休憩室で、ジントニックを飲んだ。ビジネスということで、無料だった。
11:00搭乗、11:24機は動き出した。食事がすぐ出る。
ナイロビに近づいた、右手に、頂上に冠雪を頂いたキリマンジャロがうっすらと見えた。
(キリマンジャロ:アフリカ大陸東部、タンザニアとケニアの国境付近にある山。アフリカの最高峰。最高点のキボ山(標高5895m)とマウェンジ山(5149m)の2つの山頂があり、約11kmはなれて山稜でつながっている。赤道直下の南緯3度に位置するが、1年をとおして氷雪が山頂をおおい、高度が下がるにしたがって高山植物帯、森林地帯、農地、草原と植生が変化する。1000~2000mの南麓(なんろく)斜面では、コーヒーやバナナの栽培がおこなわれている。

1889年、ドイツの地理学者マイヤーらが初登頂し、アメリカの小説家ヘミングウェーの「キリマンジャロの雪」(1938)で世界に知られるようになった。)
日本の最高峰富士山(標高3776m)より高いが、頂上は、扁平である。

機の左には、最近の新聞で、フェリーが沈没して多数の犠牲者を出したビクトリア湖がある(ビクトリア湖:アフリカ中東部、ウガンダ・ケニア・タンザニアの3国にまたがるアフリカ最大の湖。ビクトリア・ニャンジャともよばれる。湖面標高は約1151mに位置し、南北の長さは最大約340km、東西の幅は最大約240km、面積は6万9482km2。スペリオル湖につぐ世界第2の淡水湖である。深さはそれほどなく、最大でも100mにみたない。

流入するおもな川はカゲラ川で、北からナイル川上流のビクトリアナイル川(白ナイルの上流)が流出する。ナイル川の水源を発見する探検で1858年にイギリスの探検家スピークがヨーロッパ人として最初に確認し、ビクトリア女王にちなんで命名した。75年にはスタンリーが湖岸を周航している。この湖は、かつてはアラブ人からウケレウェとよばれた。

ビクトリア湖周辺は、降水にめぐまれて肥沃(ひよく)な農業地帯がひろがり、アフリカでもっとも人口密度の高い地域のひとつにかぞえられる。湖では漁業が盛んである。ビクトリアナイル川の流出口にあたるウガンダのジンジャに、1954年、オーエン・フォールズ・ダムが完成した。これにより湖は巨大な貯水池と化し、水力発電によって周辺地域に電力が供給されている。このダムによって、1862年にスピークが命名したリポン滝も水没した。

第1次世界大戦中の1915~16年には、湖が英独両軍の軍事行動の舞台となった。16年6月、イギリス軍が最大の島ウケレウェ島を占領し、翌月、南岸のタンザニアのムワンザがイギリス軍の手におち、湖上戦は終わりをつげた。)

飛行機(ボーイング767)はキリマンジャロを過ぎてほどなくナイロビ空港にランディングした。現地時間15:00だった。空港で、ビザ申請用紙に記入、8日間の滞在と答え、30US$払った。ヘルスコントロールでは、長蛇の列である。やたらとインド人が多かった。これを全部待つのか、と憂鬱な気分になりかけた時、私を見た係官は、ジャパニーズかと聞きそうだと答えると、ジャパニーズなら此処は通って良いという。
インド人は危険と見なされているらしい。ホットして通り、次の関門も何も言われず、最後の税関でも、土産はあるかと聞くので、無いと答えると、行ってよしと顎をしゃくった。

空港の外に出て、KTa氏を捜す。そこら中探しても居ない。しょうがないので、構内放送をと探して放送しているところへ、「日本工営」という看板を持った運転手が立っていた。ホットして、私がその男に名乗ると、ミスターKTaは、急用が出来たので、一人で迎えに来た。といって、三菱のパジェロに連れて行った。
空港から走ること30分、16:00にオフィスに着いた。セレナホテルは、オフィスのすぐ近くである。チェックインして、風呂にはいる。KTa氏は、サウナに行くといっていたので、19:10にロビーで待ち合わせ、食事をすることになった。
キャッシヤーで両替をする。200US$=11100KSH(ケニアシリング)だった。

KTa氏と落ち合い、同じホテルの高級レストランで、ワイン2本を空けた。今日は会議費にしましょうといって、ご馳走になってしまった。
KTa氏も、日本にいる時よりもこうして、海外で解き放たれた気持ちになることの方が楽しいらしく、話が弾んだ。
KTa氏は、本四公団から、中途で、日本工営に入社されたらしく、奇しくも、私とは同年配であった。
私のことを考えてくれて、なぜ日本工営に来たのか、面接以来余り話したことがなかったけれどと、私の生い立ちに話が及んだ。
私は、造船で船殻(せんこく=ドンガラ)を設計していたけれど、ある時、海洋構造物を担当することになり、数隻経験したところで、ぱたっと引き合いが無くなって、造船所内をぐるぐる回ったが、最後の建築鉄構というところもバブルの崩壊で潰れ、要らない人間になってしまったことをかいつまんで話した。

橋の名称は、フィリピンで少し学んだが、まだまだ手探りで、ジンバブウェの仕事は本格的ドネーションであり、いろいろ苦労していると話した。
レストランは、ほの暗く、落ち着いた雰囲気で、残念ながら、改めて、此処は真の意味でアフリカではないのだ、しかも、あの治安の悪いナイロビではないのだと思わざるを得なかった。
ナイロビの市内では、車から腕を出していると、時計欲しさに、手首ごと切り取られるのだとまことしやかに聞いていたから。

食事も終わり、明日9:30出発を約束して、それぞれの部屋に入った。

5月18日(土)7:00にレストランで、朝食を済ませる。長年の癖で、どうしても早く起きる習性になっている。昨日、少し食べ過ぎたので、もう一つ食欲が湧かない。部屋に帰ると、KTaさんから電話で、9:00に出発を変更するとあった。
ホテル代をケニアシリングで払う。8638Ksh(156US$)だった。結構高い。トラベルエージェントを回り、KTaさんのは日本への帰りのチケットを予約した。このために朝の出発を30分早くしたのだなと納得した。

市内を少し回り、車の中から、ナイロビの案内を少ししてくれた。そのまま空港へ、直行。荷物を機内預けにして、100Kshのタックスを払い、11:00に出発した。機内は、冷房が余り効かず、暑かった。
乗客は、ケニア人の他に、白人も多かった。12:05にマリンディに到着、私と同じ身分の出向社員、Suさんが空港まで迎えに来てくれていた。
その足で、先ず、エデン・ロック・ホテルにチェックインした。荷物を部屋に置きっぱなしで、そのまま現場に向かった。外は雨が降っていた。

途中、イタリア人街で、スパゲッティを食べた。Suさんによると、今はシーズンオフなので、人影は少ないが。ピーク時には、3000人位になるらしい。イタリア人が多いとか。
ここマリンディは、15世紀の大航海時代に西洋から東洋に向かう中継地点として有名である。

現場事務所に着き、「サバキ橋」関連の進捗状況や、懸案事項を、傍聴した。結構これが長く、18:00過ぎまで掛かった。私はただ傍聴するだけである。Tak氏(住友建設)、Ueh氏(建設企画)に会うことが出来た。

夕食は、「I love piza」でシーフードスパゲティを食べた。Su氏は、建設企画の部長をしておられて、借り上げで、日本工営の仕事をされているという、私より少し年配の人だった。そろそろこの仕事から足を洗いたいと言っておられた。私も、その気持ちは分かる様な気がする。
氏はタンザニアや、ガーナも体験されているようで、タンザニアは好きだと言っておられた。しかし、ガーナは貧富の差が激しく、好きにはなれなかったようだ。

夕食が遅かったこともあり、又明日10:00とのことで、ホテルに帰り、一日の疲れがどっと出て、眠くなりすぐ寝た。

翌日曜日は7:00に目が覚めた。(随分疲れている)昨夜は、ディスコの音がうるさく、寝られなかったこともあって、フロントに申し出て部屋を替えて貰った。
朝食は、KTaさんと一緒。エデン・ロック・ホテルは、野趣溢れる作りで、海岸線にも近かった。ボーイに会うと、何時も「ジャンボ」である。これ以外スワヒリ語は知らない。
朝の一時を、一人で海岸まで散歩した。
10:30から12:15までKTaさんの部屋で、ミーティングをした。昼食は又、スパゲティ。14:00~16:10住友建設の事務所で、会議を持った。此処でも総合報告書などの話が出始めていた。
19:40、KTaさんとホテルで夕食を取った。殆ど現地料理(ポーク)だった。昼まで晴れていたのが急に大雨に見舞われた。何しろ天候が変わりやすい。
部屋に帰り、シャワーを浴び、持っていった「人間の歴史」を読み眠りについた。
いろいろ考えたり、エアコンが効きすぎていたりしたこともあって、眠りが浅く、度々目が覚めた。

眠れないこともあって、20日(月)は6:00に起床した。鈴木氏との約束時間のタイミングが合わず、一旦部屋に帰って、ファイルの続きを調べていた。11:00にドライバーと3人で、旅行社に行き帰りの8月22日(水)発8:45モンバサ発9:45ナイロビ着の席を、リザーブした。

明日は、マリンディからモンバサまで下って、そこからナイロビに向かう。モンバサ(Mombasa)はアフリカ大陸東部、ケニア南東部の都市。インド洋に面した港湾都市で、ナイロビにつぐケニア第2の都市。タンザニア北東部の港や内陸のウガンダに通じる鉄道の拠点でもある。洋上に浮かぶモンバサ島は、堤防や橋、フェリーで本土とむすばれている。人口は46万5000人(1989年)。

モンバサ島の西側にある近代的なキリンディーニ港には、大規模な埠頭(ふとう)、造船所、精糖工場や石油精製所がある。島の東側にある旧モンバサ港は、おもにダウとよばれる帆船や小さな沿岸用貿易船をあつかっている。1590年代にポルトガル人によって建設されたフォート・ジーザスは、現在は博物館になっている。モンバサ工科大学(1948年創立)もある。

モンバサは8世紀ごろアラブの貿易商人によって建設され、インド洋沿岸の重要な港として発展した。1498年にはポルトガルの探検家バスコ・ダ・ガマがこの地をおとずれている。1840年にザンジバル島のスルタンの統治下におかれるまでは、支配者が何度もいれかわった。95年にイギリスが占領し、1907年までイギリス東アフリカ保護領となる。20年にはケニアの沿岸保護領の主都となり、63年に新しく独立したケニアの一部となった。

マリンディはといえば、アフリカの牙、ソマリアまでは目と鼻の先である。思えば遠くへ来たものだ。自分の人生が、順調であれば、アフリカへはまず来ることはなかったであろうと思った。

いろいろ考えながら、昼食のカレーを食べ、それが終わって、現場へ向かった。サバキ橋の現状を見て、ナイロビのWak氏に連絡を取り、ホテルに帰る前に、マリンディの市街地の雑踏と、リゾート地を見て回った。ホテルに着いて、疲れているので、仮眠を取った。最後の夜は、住友建設のおごりで、シーフード鉄板焼き(プティプ)を食べた。ホテル帰着は10:30シャワーを浴びて、眠りにつく。今日を入れて、マリンディ(エデンロックホテル)は3泊になる。

私は、何のためにマリンディまで来たのだろうか。現在、ジンバブウェの仕事の参考にということかも知れないが、ところ変われば品変わるで、そのまま横滑りに参考になるという訳ではない。
KTaさんが、思いやって、私を連れ出したのであろうか。
何れにしても、良い経験をさせて貰った。

5月21日(木)今日も6:00起床、少しファイルを見て、7:30朝食に降りる。
KTa氏と朝食を共にし、彼が17年間本四公団にいて、2年間ケニヤに暮らされたことなどを、また本四では、工事長として、用地買収(洲本)などに手を焼いたり、又、東京と神戸の行き来をしたことなど、問わず語りに聞かせてくれた。

旅行代理店で、20:30発のナイロビ行きと、ナイロビでのセレナホテルの予約(22,23日)を済ませ、ホテルの部屋での仕事を済ませ、住友建設の事務所を最後に往復して、15:30東にアフリカ事務所の運転手に運転をさせて、モンバサに向けて出発した。途中、ケニヤの名産である、リュウゼツラン(サイザール麻)の群生を見て、キリフ橋で暫しインド洋を眺める。
残念なるかな、ジンバブウェには、海がない。此処で見る海が、しばしの見納めである。私はインド洋が、やがて、太平洋に続き、日本の海岸にも通じているのだと考えると、感傷は、益々深まった。このことをKTaさんに話すと、同情に満ちた顔をされた。

道すがらの、インターコンチネンタルホテルの海が見える、テラスで、コーヒーをすすった。
モンバサ市内に入ったら、人種のるつぼであった。さすがにケニヤ第二の都市で、しかも港町と来ている。当然のように賑やかである。

KTaさんが良く行ったという、キャッスルホテルは改築中で、別のホテルで、ビールを飲み時間を潰した。
19:40にモンバサ空港に到着。ドライバーにチップを50Ksh与えて、解放した。
20:15ボーディング、45分のフライトで、ナイロビに到着し迎えに来ていたドライバーにセレナホテル(来た時泊まっていたホテル)に案内させる。
チェックインして、風呂に入り、遠き、夢のようなモンバサ、マリンディの小旅行を思い起こした。

翌22日(水)6:30に起き、7:30朝食。立派なホテルは、気持ちが良いが、貧乏性か、何となく落ち着かない気もする。
8:30ナイロビのオフィスへ出向く。途中、鴻池のWa所長、Na氏が挨拶に見える。
ナイロビのオフィスでは、余り実になる仕事もなく、昼食は、JICAのUeさんを含んで、CPCのTodさんに奢られた。
ナイロビのオフィスで。遠藤所長と暫し話す。暫くして、ジンバブウェに来るという。

旅行社に帰りの飛行機の予約確認をして、ホテルに帰る。
夕食は、KTaさんは、勝手に会食するので、一人でどうぞとなった。
一緒に行ってもなんぼのものじゃと思いながら、MTa氏のKTa氏評を思い出して、苦笑した。「人間の歴史」を読んでいたら、国際電話でTSuさんが出た。ハラレ空港での迎を頼んで、その夜は更けていった。

5月23日(木)6:00起床曇って、朝日は見えなかった。7:00に朝食を済ませ、7:45チェックアウト。320US$であった。
すぐ東アフリカ事務所(ナイロビオフィス)でコンピュータのパッキングをする。
ホテルに帰り、KTaさんの荷物を纏めるのを待つ。

その後、オフィスでもミニストリーでもKTaさんが挨拶するのを、私は車の中で待っていた。
街で、コーヒーを飲もうとしたが、ヒルトンホテル近くの店はクローズだった。
仕方なく空港へ出向いた。最後の逆両替をした。ラウンジで休み、11:50ボーディング(ボーイング767)、12:15に動き始めて、14:10ハラレに着いた。今回のフライトでは、キリマンジャロは見えなかった。TSuさんと、TIkさんが空港に出迎えに来ていた。

5月17日にハラレを出発して約1週間の旅行(出張?)であった。

帰ると早速、TSuさん宅のシベリアンハスキーがマレーテを咬んだという。黒は人間でないと思っているTSuさんも、何だかだで、治療費を払うと言っていた。こちらに何も言わず、黙って、医者に行くとは不届きと怒っていた。

KTaさんが来たというので、皆、非常に緊張していた。彼は、独特の癇癪持ちであり、良い時はそうでもないが、少し捻くれると、全く手がつけられないのが現状だった。
自分も分かっていないことが多く、それを、分からないと言えない悲しさがあるようであった。
私などは、知らなくて当たり前であると思っているので、その点は、気楽ではあった。
当のKTaさんは、サウナと、買い物に出かけてしまった。

鴻池のMat副事業部長、TIk氏を供に挨拶。KTaさんは、小路1等書記官→安村参事官→JICA中村所長を相次いで、訪問挨拶をした。

又、従業員には、
マトーレ(秘書)に:
朝食・昼食は自分で作れ。○○さんに迷惑を掛けるな。
私用電話は、掛けるのも、掛かってくるのも禁止。
マレーテ(運転手)に:
部屋の中へ入ること厳禁
車の中で、新聞を読むのは、寒い時は特別許す。(但し門の開け閉めはちゃんとやれ)
行き帰りに、○○さんに挨拶無いのはけしからん
など、矢継ぎ早に、指示を出していた。

土曜日は明け方から、いろいろなことがあり、うつらうつらしていた。5:00のケニアからのSu氏のファックスで、完全に目が覚めた。更にKTaさんの6:30からのがさごそで、ベッドから起きあがった。
資材供与に対する、KTaさんの話は、拡散するばかりで、収拾がつかない。午前中は、いらいらして過ごした。

午後2:30から2時間テニスで汗を流した。TSu夫妻、KTaさんと私だった。
やがてKTaさんはクレスタロッジに移ることになった。クレスタロッジは、私のオフィスからも近く、ジンバブウェでは、しゃれたところで、そう高級でもない適当なところだった。夕方は、TSu邸で、例によって、食事と、カラオケをやった。鴻池の連中と、我々、KTaさんが一緒だった。
「時計台の、下で逢って、二人の恋は、始まりました・・・」正直音はずれではあるが、TSuさんの得意歌である。

盛り上がって、帰る頃になると、外は大雨になっていた。
一夜明けても、雨は降り続いた。工程の件や、次期ゴルフの組み合わせの件で、TSu氏や、TIk氏の知恵を借りた。夕食は、鴻池の招待で、チャイナタウンでの食事となった。
チャイナタウンは、日本人の口に合う、中華料理である。それに南アのワインが旨いときているので、日本人会の連中は、とどのつまり、此処を選ぶことになる。
明日は現場を視察するので、朝が早い。早めに切り上げた。

翌月曜日、やはり、雨であった。朝3:30起床、4:00過ぎにオジに向かって出発した。途中ハーフウェイの休憩を挟んで、8:00にオジ橋に到着した。一渡り調査を終えて、9:30に終わり、グツ方面に向かった。
途中ビルヒノフ橋で、声が掛かった。よく見ると、あのニョニが、橋のインスペクションをしている所であった。とても元気そうであり、私は、ある種の安堵感を覚えた。形通り、デブレ1橋、ペンベジ橋、ソテ橋と回った。

Devere-2

【雨期、濁流に洗われるドネーション前のデブレ2橋】



KTa氏は車の中で、M事業部長を呼べ、いやもう良いと、すったもんだしたあげく、ウングウェ橋には行かないが、同様にやっておくようにとのKTa氏の意向だった。
果ては、私が、正月何用があって一時日本に帰ったのかまで、詰問され、煩わしかった。
17:30チブを通過し、19:30に家にたどり着いた。

火曜日は、晴れたり曇ったりであった。
クロージングのときは近かった。
マトーレは、ボーナスが欲しいという。また、21日間の休みも欲しいと結構うるさい。KTaさんは、21日の休み分を加えて、1ヶ月分のオーバータイムを支払っても良いとの意向だった。海外に精通している人の言うこと故に従うことにした。
家主の代理人に会い、年内家賃の引き上げを告げられた。
また退居する時は2ヶ月前の通知を呉れるように要求された。
午後は、鴻池、日商岩井との打ち合わせが待っていた。

KTaさんとMOTEへ行く。テベレジに話をしたが、ODAの橋と、導入道路以外は、MOTEでやることになっている。そこの所を追求すると、ややとまどった仕草を見せた。
その後9:00にクデンガ(ダイレクター)に会い、友好的に話が進んだ。

ダイレクターはムダワリマが、日本に行く頃に、日本に行くと言うことだった。
KTa氏は、気分にむらが多い。何を考えているのか分からないところがある。MTa氏も言っていたように、難しい人である。
合間にゴルフをする。KTaさんのペースで、物事は回っている。

翌5月30(木)KTaさんが帰国する。みんなで、飛行場まで、見送りに行った。
皆に送られて、上機嫌のKTaさんは、軽い足取りで、次回は、引き渡し式に来ることで、帰国の途に付いた。

MTa氏が、モザンビークに来て、国境の町ムタレで、車を借りたいと言ってきたが、入出国の関係から難しいと言うことで、流れてしまった。

6月になった。8:00に起き、ジャガーへ買い物に聞く。オフィス用品として、週1回買い出しに行く。この時は、大きなカートを2つ並べて、必要そうなものを、ぼんぼんカートに入れていく。カートが一杯になったところで、買い物は終わりである。それでも、幾ばくの金額にならない。
昨日から電話がうんともすんとも言わない。電話がないと、本当に不便である。
鴻池に頼んで、電話会社に連絡を取った。

日曜日は、ウィンゲートで、TIk氏とラウンドする。

電話は、不通が続く。チャワンダは、ピックアップのダイナモが故障しているので、それが治るまで、コンプリーションレポートを見直させる。
Ta氏との打ち合わせなど、一人で決めなければならないこともあって、疲れが顔に出る。

試みに薬をストップしたが、時期が悪かった。

相変わらずMOTE通い。テベレジもムダワリマも、不在。他のスタッフの所で、しばらく過ごす。
チャワンダの雇い主である、ムガベが来たという。私が不在だったので、又出かけてくると言ったそうだ。
電話は、やっと直った。

バスター(犬)が良く吠える。うるさくて寝られない。朝早くから、追いかけ合いをすることもしばしばだ。それに加えて、パトリックに電話が掛かってくる。ふざけた奴だ。パトリックを呼び叱りつける。
庭師の分際で、主人の家の電話を教えるとは、不届きな奴だ。それもこれも、KTaさんが居なくなってからのたがの緩みである。
銀行への送金があることを確認して、出金に行く。
コンサルタントのムガベが集金に来る。今回はまだニョニの分もあり、昨年のボーナス分も支払わねばいけないので、24900Z$と結構な出費になった。

夕食はTSu邸で、安村参事官、日商岩井のIwa氏が一緒だった。

昨日飲んだので、朝はぐっすり眠れたが、又バスターの馬鹿犬に起こされた。私はもともと犬は好きではないが、アフリカの犬は、その中でも始末が悪い。馬鹿犬としか言いようがない。
KTaさんから、ペンベジ橋の護岸に布団かご(ギャビオン)を大幅に付けるように言ってきた。TIk氏はあわてて、本社を通じて、軽減して貰うように働きかけるとのことだった。

9:00過ぎ、ゴルフに出かけた。帰りは、2:00を過ぎた。
電話が、又、一時ダウンする。(どうなっとるんや?)

Ta氏の奥さんと、子供が肝炎になっているという。こんな地の果てで、しかも黒の医者には掛かりたくないと、私は思った。

続きます。




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